[ 見学地の解説 ]
(1) 地下鉄・日本橋駅 (開業:1969/12/6)
地下鉄路線図の色について
御堂筋線大阪の大動脈
谷町線谷町筋には寺が多く、袈裟の色
四つ橋線昔はであった。
中央線沿線にの森や公園が多い。
千日前線千日前の歓楽街を通る。
堺筋線相互乗り入れしている阪急の色。
長堀鶴見緑地線鶴見緑地を通る。
南港ポートタウン線海の景色の色。
図案の作成者は、インダストリアルデザイナー
の澤村 徹氏。
(大阪市交通局・地下鉄路線図より)
(2) 道頓堀川
(以下、写真をクリックすると拡大写真が見られます)
道頓堀川の開削は、豊臣時代(1614年)に、安井(成安)道頓が久宝寺村の農民たちと
とともに、梅津川の小溝を拡げて行ったといわれている。
その功績を讃えて、道頓堀と名付けられた。
「水の都・大阪」の再生を目指した道頓堀川水辺整備事業の一環として、道頓堀川の
戎橋ー太左衛門橋の間で、左右の岸から、川中にせり出した遊歩道が建設され、平
成16年12月18日から、市民の憩いの場「とんぼりリバーウォーク」として開放されて
日本橋から見た道頓堀川
いる。
(3) 道頓堀川川碑
昭和37年(1959年)に、地元婦人会の人達が建てた碑で、表面には、
小野十三郎(おのとうさぶろう)の詩、裏面には、婦人会の人達の願い
が、黒御影石に刻まれている。
表面
裏面
(4) 安井道頓、道卜紀功碑
碑石は、高さ約3m、幅約90cmの直方体の石柱である。
大正3年、天皇が来阪された時、功徳のあった先人を追褒し、安井
道頓と安井道卜に従五位を贈られたが、翌4年11月、大阪府知事
大久保利武の発意で、道頓堀川各町からの醵金で、安井家の私邸
があった所に建碑されたものである。
表面
裏面
(5) 法案寺
法案寺は、山号志宣山、真言宗高野派宝寿院の末寺、もとは、
生國魂神社の別当寺で、生玉町にあったが、明治の神仏分離令
のためここに移ってきた。
別当寺とは、神宮寺とも言われ、神仏習合思想により、神前読経
の目的で神社内に建設された寺のことをいう。
本尊は、重要文化財の「聖観音(菩薩)立像」である。
法案寺
法案寺境内
(6) 下大和橋
道頓堀川に架かる町橋で、近松門左衛門の浄瑠璃「生玉心中」の舞台と
なった橋として有名である。
明治時代には、この橋の東よりの堀止めに巡航船の乗船場があり、通勤、
観光を兼ねた交通拠点として賑わった事が記録に残っている。
下大和橋
(7) 谷崎潤一郎文学碑
国立文楽劇場前の、千日前通りの緑地帯の中に建てられている。
碑には、竹本座と豊竹座の紋が彫られ、「蓼喰う蟲」の一節が刻ま
れている。
谷崎潤一郎文学碑
「蓼喰う蟲」の一節
(8) 国立文楽劇場
昭和58年(1983年)に、旧高津小学校の跡地に完成した、地上5階、
地下2階、客席数753席の国立劇場である。
1階には、自由に見学できる文楽資料室がある。
敷地内に、旧高津小学校跡地の碑石が残されている。
文楽人形の構造
旧高津小学校跡地碑
(9) 近松門左衛門文学碑
谷崎潤一郎碑の東よりの、千日前通りの緑地帯の中に建てられている。
白大理石に黒御影石の帯が巻かれ、谷崎と同様の竹本座と豊竹座の紋が
彫られて、こちらには、「心中重井筒」(しんじゅうかさねいづつ)の一節が刻まれて
いる。
近松門左衛門文学碑
(10) 高津宮(高津神社)
高津宮は、仁徳天皇を主神とし、仲哀、応神、履仲三天皇と神功
(じんぐう)、磐媛(いわひめ)ニ皇后が祀られている。
貞観8年(866年)、清和天皇が、仁徳帝をまつる社殿を旧都の遺跡
に造営されたのが、高津宮の創建である。
参道で、まず、右が「仁風敷宇宙」、左が「徳化洽乾坤」と彫られた
高津宮の鳥居
本殿
二大石柱が目に入るが、この頭文字を合わせると「仁徳」になり、
仁徳天皇の名の起こりを表していると思われる。
中ほどにある小さな石橋が、道頓堀川の源流と言われる梅川(梅津
川)(今は無い)にかかる「梅の橋」(うめのはし)である。
大阪には、三つ「ハシ」があると言われており、この「梅の橋」のほか
は、「鶴橋」(つるはし)と、住吉大社にある「反橋」(そりはし=太鼓橋)である
参道(石柱)
と思われる。
他にも、「梅乃井」、「梅乃井碑」、「北野恒富筆塚」、「安井稲荷神社」、
安井家奉納の「石灯籠」、高津舞台と言われる「絵馬堂」、「神輿(みこ
し)庫」など、歴史的な建物や石碑が残されている。
絵馬堂の前には、黒御影石に刻まれた堀沢周安作詞、中田章作曲
の「大阪市歌」の碑が建っている。
大阪市歌の碑
(11) ボードウィンゆかりの地碑(法性寺)
「浪華仮病院」の蘭医であり先生であったボードウィンが、この法性
寺に住んでいて、彼のエピソードを彫った石碑が、お寺の正面右手
に建てられている。
法性寺
ボードウィンゆかりの地碑
(谷町筋)
上町台地を南北に貫き、天満橋から阿倍野橋までの延長4.7km、
幅員40mの街路である。
谷町筋の名称は、元禄年間(1600年代)につけられ、昔は幅員6m
程であったが、昭和42年の地下鉄・谷町線営業開始〜昭和45年
の万博関連事業で拡幅され、現在は、御堂筋に次ぐ交通量の多
谷町筋
い幹線道路である。
(12) 近松門左衛門の墓(国指定史跡)
谷町7丁目交差点南100m程のところの路地(ガソリンスタンド南)を入っ
た所にこの墓がある。
もともとここは、法妙寺の境内であった。妙法寺は谷町筋の拡幅で大
東市に移転したが、近松墓は、国の史跡指定を受けていたため、現地
保存が義務付けられ、このような形で当地に残された。
記念碑
近松門左衛門の墓
(楠木通り)(楠木大神:くすのきのおおかみ)
谷町7丁目交差点東の道路のど真ん中に、樹齢500〜600年
と言われる大楠木があり、その下に鳥居、祠、賽銭箱が置か
れている。白蛇が住みついているといわれ、地元のひとは「巳
(みい)さん」と呼び、この楠木大神を奉っている。
もともとは、本照寺の敷地であったが、道路拡幅のためお寺は
楠木大神
移転したが、この楠木だけ保存されたものである。
楠木通り
(13) 井原西鶴・中井一族墓所(誓願寺)
誓願寺の門前に碑があり、「井原西鶴先生墓・浪華懐徳堂 中井甃庵
(しゅうあん)先生 中井竹山(ちくざん)先生 中井履軒(りけん)先生墓」と刻ま
れている。
浪華懐徳堂は、江戸の昌平黌と並ぶ大阪の学問所で、上記中井一族
井原西鶴の墓
はその教授であった。
誓願寺門前碑
墓は、明治20年(1888年)過ぎ、幸田露伴らが、境内の無縁墓の中から
見つけ出したのが手がかりとなった。
寺の表門を入った左手に、西鶴の流れを汲む武田麟太郎の文学碑が
建てられている。
武田麟太郎文学碑
(14) 浪華仮病院跡碑(大福寺)
明治2年(1869年)2月、大阪府によって、緒方惟準(おがたこれよし)を院長
とし、蘭医のボードウィンらを教師として、ここに開設された。
明治5年10月の学制改革で廃止されたので、寿命は3年であったが、後
の大阪大学医学部の前身である。
大福寺
大村益次郎もここの医学生であった。
浪華仮病院跡碑
(15) 織田作之助墓(楞厳寺:りょうごんじ)
代表作「夫婦善哉」を残し、病気の為35歳という若さで世を去った
織田作之助の墓所である。
墓の裏面の碑文で、「虚弱な肉体を忘れて、文学を熱愛したため、
ロマンを発見したと伝説的一語を残して絶命した」と藤澤恒夫が
述べている。
楞厳寺
織田作之助の墓
(16) 円珠庵(契沖墓)
契沖は江戸中期の国学者で、40歳の時、徳川光圀の命により「
万葉代匠記(まんようだいしょうき)」を著している。
晩年、この地に居を定め、円珠庵と称して隠棲し、元禄14年(1701
年)62歳で生涯を閉じた。
円珠庵
契沖史蹟碑
(17) 高津宮跡碑(高津高校内)
高津高校内に建てられている碑である。
高津宮の置かれた場所は、未だ明らかになっていないが、明治22年(1899年)
に大阪市が、仁徳天皇1600年祭を挙行するに当たり、民間に諮問した際の
答申「高津御宮跡取調書」により、現在の場所に碑が残された。
高津宮跡碑
(18) 騎兵営址碑
明治時代の地図を見ると、ここから北の方は、陸軍関係の用地がたくさん見られ、
この碑がある辺りには、騎兵第四聯隊が駐営活動していたことがわかる。
碑の側面には、騎兵第四聯隊の歴史と聯隊歌が刻まれた石板がはめ込まれて
いる。
騎兵営址碑
(19) 陸軍省所轄地碑
騎兵第四聯隊は、昭和7年(1932年)に、堺市金岡に移転し、跡地が現在の
真田山公園である。
真田山公園のそばに、陸軍省の所轄地であったことを証する碑が残されている。
陸軍省所轄地碑
(心眼寺坂)
騎兵営址碑のある前の、北に向かって下っている坂が心眼寺坂で
ある。途中に、心眼寺があるところから、この名がつけられた。
心眼寺坂
(20) 准胝(ジュンテイ)観音像(興徳寺)
興徳寺は、山号を隆法山といい、真言宗高野派高南院の末寺で
本尊は、薬師如来である。
天平年間(729〜749年)行基の開創といわれているが定かではなく、
天正(1573〜1592年)の頃、祐乗上人が再興し現在に至っている。
境内には、准胝観音が安置されている。
興徳寺
准胝観音像
(21) 心眼寺
心眼寺は、山号を海養山といい、浄土宗知恩院の末寺で、本尊は、阿弥陀
如来である。
元和8年(1622年)、僧白牟が、真田幸村、大助父子の冥福を祈って創建した
寺である。そのため、門扉に真田家の家紋である六文銭が付いている。
心眼寺
(22) どんどろ大師・勝軍地蔵(善福寺)
善福寺は、山号を如意山といい、真言宗大明王院の末寺で、宝亀
9年(778年)開成王子が開基したと伝えられる。
弘法大師を本尊としていたが、現在は薬師如来である。
一般に、「どんどろ大師」と呼ばれているが、これは、弘法大師が本
尊の頃、大阪城代であった土井大炊頭(おおいのかみ)が深く信仰し、
善福寺
どんどろ大師碑
土井殿大師と呼ばれている内に訛って「どんどろ大師」と呼ばれるよ
うになったといわれている。境内には、「土井」と刻まれた石灯籠がある。
門前左には、元大阪府知事佐藤義詮書の「どんどろ大師」碑が建っている。
明治になって「どんどろ大師善福寺」となったが、これは、廃仏毀釈のおり、「檀家
を持たない寺は認められない」という決まりがあり、当時の住職義等が僧籍を離れ
廃寺になっていたところに、明治42年(1908年)豊能郡東能勢村の善福寺が檀家
ごとこの地に移ってきたためである。
勝軍地蔵
境内に、念ずれば、戦いに勝ち、宿業、飢饉などを免れるといわれる、日羅を象っ
た「勝軍地蔵」が祭られている。
(23) 旧真田山陸軍墓地
全国に80箇所以上あった旧陸軍墓地の中で最古の墓地である。
総面積5,359坪(17,685‡u)の敷地内に、墓標が約4800柱、納骨堂
には約43000柱の遺骨が納められている。
明治4年に墓地は創設され、西南戦争以降の墓標の形状を今に
伝えている点で、貴重な歴史遺産とも言えるものである。
旧真田山陸軍墓地
墓標
(24) 三光神社
祭神は、仁徳天皇。
神社の社名は、古くは日月山神社、後に社地を姫山と呼んだこと
から姫山神社に、その後、大阪夏の陣のとき、徳川方の加賀宰相
前田利常が、この小丘に陣を構えたことから宰相山神社になった。
明治41年(1908年)に、陸奥国青森の三光宮の分霊を勧請したと
三光神社
真田の抜け穴
ころ、三光宮が中風封じに霊験があるということから、老人が参詣し、
「三光さん」と呼ばれているうちに、今の神社名になった。
社殿に上る石段手前左に、「真田の抜け穴」と呼ばれる洞穴がある。
真田幸村が、この地に偃月城(えんげつじょう)と名付ける塁を築き、大阪城まで通
じる暗道を造ったと言い伝えられている。
抜け穴の右には、真田幸村の陣中指揮姿の銅像が建てられている。
境内には、桜の木が多く、市内でも有数の桜の名所である。ほかにも、エノキ・
真田幸村銅像
ムクノキ・アキニレ・センダン・イチョウなどの高木があり、雰囲気が森閑としている。